ひみつ日記

タフガイのタフガイによるタフガイのための日記です。
おもに生まれてすみませんとか書いてます。

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■ 2005/04/19
    ジューダス・プリーストの「LOCHNESS」という曲にはまった。
    どういう曲かというと、まんま漢アニメのエンディングテーマなんであった。
    傷つき倒れた戦士たちよ、ってな雰囲気を醸し出す曲なんであった。
    こういうタイプの作品一般を、わたくしは「漢センチメンタリズム」と呼んで、特に愛好している。
    具体的にどういうものが漢センチメンタルなのかと問われれば、

    ・北斗の拳
    ・ロッキー
    ・ベートーヴェンの「エロイカ」第二楽章
    ・プロジェクトX
    ・男達の挽歌
    ・新約聖書
    ・チャイコフスキーの「悲愴」

    等々を挙げておこう。
    「勇壮と哀愁」を旗印にして、男のロマンチシズムと女々しさを十全に映し出す作品と言えるだろうか。
    ぼくの勝手な持論なのだが、心の有りように男性的な脆弱さを持った人ほど、こういう作品を好む傾向にある。
    しなやかで自信のある人はあえて勇壮とか叫ばないし、そのままで泰然としているもんだからである。
    自分の脆さを認識しているからこそ、肉体や精神を鍛えるわけである。
    そして男というのはたいてい、鍛錬や精神論に頼らずにはいられない脆い生き物なのである。
    努力して登ることに、ロマンチックな憧れを持たずにはいられないのである。
    つまり何が言いたいかというと、ダメ人間を究めたわたくしは、実は男の中の男と言えるのではないかということである。
    これからは、わたくしのことはアニキと呼んでもらいたいものなのである。

■ 2005/04/16
    フォアグラの製法が非人道的であるため、禁止の方向に進んでいるらしい。
    非人道的というなら、アジの干物あたりもいかがなものかと思う。
    干物というと聞こえがいいが、あれはミイラである。
    「死体をミイラにすると、うまみが増しておいしくいただけるんですよ」
    とか普通に言ってるわけである。
    腹を開かれているアジも、それを聞いて「マジかよ」とか思っているであろう。
    しかし、それでも他の生物を食べないわけにはいかないのが、人間の業というもの。
    こうした業から目を逸らすのはよくない。
    現実を直視するためにも、アジの干物はアジのミイラと呼ぶべきであろう。
    ただ問題は、今日のこの話はいまいち面白くないということである。

■ 2005/04/11
    上京により、仕事が一つ増えた。
    「レーベルのカラーは気にせず、好きなようにやってください」
    と言われたので、好きなことをやってしまおうと思った。
    食パンをくわえた女子高生と正面衝突したり、自分に好意を寄せている女の子がいつの間にか布団の中に潜り込んでいて、朝、幼なじみの子が自分を起こしに来た時にそれを見て「な、何やってんのよー!」と切れたりする話を書こうと思った。
    しかしながら、皆さんもご存じの通り、これではわたくし自身のノンフィクションになってしまうのが問題だ。
    わたくしの日常生活をそのままに描いても、読者は喜ばないだろう。
    なので断念。

    飲みの席で、ダッシュ文庫の某美少女編集者が可愛らしくもハイセンスな服を着ていた。
    しかし、そんな可愛らしい格好をしながら、話すことは常に毒舌なのであった。
    このキャラクター、そのうち小説の中で使おうと考えた。
    そんな美少女編集者、酔っぱらった拍子に、彼女自身のあまりにも凄い逸話を話してくださった。若い女性として、というか、もはや人間としてどうか、といった風情の逸話だった。
    「その話は日記に書いてもいいですか」
    と訊くと、
    「いいっすよ」
    と男前な返事がかえってきたので、日記に書こうと思った。
    が、ちょっとあまりにも凄すぎるエピソードだったため、せっかくなのでトルコ日記で全世界に向けて公表してしまうことにする。
    心にくい気配りである。

■ 2005/04/10
    しばらく東京に行ってた。
    いろんな編集部を回った。
    そして常に謝罪をしていた。
    前にも書いたが、原稿を遅らせてばかりいるので、謝罪技も高度なものが必要であった。
    三沢光晴ばりの危険な謝罪技さえ繰り出さねばならなかった。
    最後にはとうとう、受け身が取れず危険なため封印しているタイガー土下座’91まで出した。
    手ごわい相手であった。

    上京中、暗黒小説家と中華料理屋で、
    「確か、ちょうど姪の子が生まれた時に、京都に来てたんだよね」
    という話をした。
    で、
    「そういえばあのあたり、ぼくの誕生日なんよ」
    と伝えた瞬間、暗黒小説家の顔色が変わった。
    「……誕生日は何日なんですか」
    「11月28日」
    「……」
    3秒ほど沈黙した後、暗黒小説家は、
    「……僕の姪のためを思って、今すぐ生まれ変わってください」
    とわたくしに懇願した。
    わたくし、さすがに面と向かって死んでくださいと頼まれたのは初めてのことであった。

■ 2005/04/04
    気づくとエイプリルフールが過ぎてました。
    なんと今年もウソをつくことができませんでした。
    3年続けてウソをつかないと法に触れ、セクシー検事に罪を追及されるというのは本当ですか。
    今更そんな取って付けたようなウソを言っても無駄ですか。
    それにしても、4月1日はネットにもウソが溢れてましたね。
    ほんと、いろいろと騙されかかりましたよ。
    「三十歳そこそこの社長がラジオ局を買収した」
    だとか、
    「愛・地球博ではポップコーンが一つ1000円もする」
    だとか、
    「ぼくは実は小説家で、これまでに20冊ぐらいの本を出している」
    だとか。
    まったく、そんなことあるわけないじゃないですか。
    世の中には妙なウソを考える人がいるものです。

■ 2005/04/02
    わたくし、何故か唐突に馬に乗ってきた。

    社会のクズ兼虫ケラであるわたくしのような人間がそんなセレブなことをしていかがなものなのか、という問題はさておき、馬は面白すぎた。
    まったく、馬というのは乗り物だった。
    腹を一回蹴ると進み、二回蹴るとスピードアップ、手綱を引くと止まる、……って感じで、なんかボタンを押すと進むでっかい機械に乗ってるみたいだった。
    が、下馬して顔を撫でてやると、やはりどうぶつなのだった。
    鼻をモゾモゾさせながらチロンと上目遣いでこちらを見たりなど、どうぶつ以外の何物でもないのだった。
    どうぶつとバイク相手以外にはうまく会話のできないわたくしには、もはやパラダイスと言っていい状況であった。
    それにしても、昔の騎士なんかはバイクのカタログを見るように馬を眺めていたのかもなあ、などと思った。
    「うわ、この馬のエンジン、1000ccのVツインかよ! 買いてーー!」
    みたいな感じで、筋肉の付き方とか血統とかを、友達同士で語ったり自慢したりしてたんだろうなあという気がした。

    乗馬クラブに入ろう。

■ 2005/03/30
    エンボス加工のフライパンがすごい。
    油を敷かなくても、ゼンゼンこびりつかないのである。
    もう、ほんとカルチャーショックと言っていいほど、何者をも寄せ付けない。少々焦がそうとまったく平気って感じ。平然として仕事をこなしている。
    まったく、頼りがいのある男である。
    それにしても、他者とうまく関係を結べないことが評価の対象になるとは、フライパンの世界がうらやましくてならぬ。
    わたくしがフライパンに生まれていたら、と思うとまったく口惜しい限りである。
    「定金さんって頼りになるよなあ……。あの人、どんなヤツもこびりつかせないんだぜ」
    「ああ、まったく憧れるよ。俺もいつかは定金さんのようになりたいんだ」
    といった会話が、若手フライパンの間で交わされていたに違いないのである。
    だというのに、まさか他者との関係が最も重要視される人間界に生まれてしまうとは。
    こんど乙女座の聖闘士と闘う時は、フライパン界に落としてもらおうとか考えてみる。

■ 2005/03/28
    近くのバイク屋で中古の4スト版KSRが売られていた。
    か、可愛い……。
    まったくあのフォルムは悪魔ですよ。
    価格は約二十万円。
    衝動買いの崖っぷちギリギリまで引き寄せられたものの、強靱な意志でなんとか踏みとどまった。
    しかし、もしクレジットカードが使えてたら、間違いなく買ってしまっていた。
    いやはやあぶないところだった。
    そんなわたくし、昨日自宅で酔っぱらった拍子に、何の必要性もなくLet's Note R3を通販サイトで購入してしまっていた。
    というか朝にメイルが届いていて驚いた。
    酔っぱらったまま、ポチッと購入ボタンを押していたらしい。
    押しバカですか、ぼくは。
    押しバカ日記。
    強靱な意志も酒には勝てないというわけである。

■ 2005/03/27
    ふと思い立って髪を茶色く染めてみた。
    特技がダンクと分身ディフェンスであるわたくし、ここはもう赤髪にしてしまうかとも思ったが、さすがにそれはやめる。
    で、なぜ染めたのかといえば、以前誰かから、
    「髪がボサボサでもとりあえず茶色くしておくとキモ男度が半分ぐらい低くなるので便利」
    という話を聞いたことがあったためであった。
    なるほど、と思ってみたわけなのであった。
    が、茶色くしてはみたものの、髪型は相変わらず真面目スタイルなので、見た目大して変化はないのであった。

    そういえば、わたくしは美容院などにはいかず、自分で髪を切っている。
    これは、面倒くさいとか美容院に入るのが怖いといった後ろ向きな理由からではなく、他人の手が顔の周りを動くのに耐えられないためであった。
    今、めちゃくちゃ後ろ向きだろ、と突っ込まれる自分の姿が脳裏をよぎった。
    しかし、人の手が顔にぴとぴと当たるのって、なんかウッとなりませんか。
    特に女性の手だと、体温が低いせいか、刺身や鶏肉がペタッペタッと顔に当たるようなイメージがして、首筋あたりがゾワっとなるのでありますよ。
    慣れの問題なんでしょうか。
    しかし、努力して欠点を克服しようとしたためしのないわたくし、慣れるまで頑張ろうという気持ちにはやはりなれないのであった。

    まあそれはそれとして、染めた翌日まで肌がピリピリしていた。
    そのへんについて暗黒小説家に話してみたところ、
    「それが三日以上続いた場合は、頭皮が腐れて脳まで髪染め液が浸食して、脳みそが青とか茶色とかに染まってしまうそうです」
    というメイルが返ってきた。
    知らなかった。まさかそんなにも危険なものだったとは。
    誰もがそんな危険を承知の上で、髪を染めていたのだ。
    命懸けの挑戦精神と言えましょうか。
    なんにしろ、また一つわたくしは賢くなった。

■ 2005/03/24
    日々おっぱいに関する思索を怠ることのないわたくし、前々回はおっぱいの真なる有りようをデカルト的視点から見つめ直すならば、おっぱい非実在論に行き着くほかはないことを論じた。
    また前回は、おっぱいのおっぱいたる本質として「おっぱいのイデア」という概念を導入することにより、おっぱい非実在論という不毛な結論に至ることへの回避を試みた。

    しかしながら今回、このおっぱいのイデアという考え方には欠点があることを指摘せねばならぬ。
    というのも、「おっぱいをおっぱいたらしめる本質」というものを設定するならば、おっぱいを構成する要素についてもやはりその本質を設定せねばならない問題があるためである。
    つまり、乳房のイデアや乳頭のイデア、あるいは巨乳のイデア、Aカップのイデア……と、本質が無限に分割・後退してしまうことになるわけである。
    これでは、本質の方が個物よりも数が多くなってしまい、本末転倒である。

    このような罠に陥るのは、イデアが個物と反対の特徴をもつものとしてしか規定できないためであるとも言える。
    つまり、おっぱいのイデアを「現実のおっぱいのように時の流れによって変化したりはしない本質」と規定せざるを得ないがために、本質たるイデアが現実のおっぱいを規定するのではなく、現実のおっぱいの方が本質たるイデアを規定するという形になっている点に問題があるわけである。
    しかし、真理というものを実際に経験し確かめることができる人間がいない以上、上記の転倒を人間が是正することもまた不可能なわけである。

    また、真理・本質を希求する精神の方向性についても、メスを入れねばならぬ。
    真理とは、あらゆるおっぱいをそれ一つで説明しうる究極の原理のことである。
    しかしニーチェによれば、そうした究極の原理・神とは、力では強者にはかなわない弱者がせめて「道徳」や「正義」においては優位に立っていると信じるために作られたものである。
    つまり、我々がおっぱいの本質へと進む精神の方向性というものは、おっぱいには遂に手が届かぬ者のルサンチマンから生じているとも考えられる。
    弱者が身を守ろうとする本能から生まれたのが、「奴隷道徳」としてのおっぱいの本質となるわけである。
    悲しむべき事実であるが、ここまで考えれば、我々はいまや次のように叫ばねばならない。
    そう、
    「おっぱいは死んだ」
    と。

    仕事もせずぼくは何を一生懸命書いてるんですか。

■ 2005/03/21
    カーディガンはカーディガン伯爵が発明した、という話を雑誌で読み、衝撃に打ち震えた。
    確か、サンドイッチもサンドイッチ伯爵が発明した筈。
    たぶん他にも同様な物がたくさんあるのだろう。
    伯爵というのは、わたくしの想像以上にすごい存在だった。
    あるいは、世にある横文字の品物はすべて伯爵の発明品なのかもしれぬ。
    カルビ伯爵とかスネオヘアー伯爵とかいたら面白いなどと考えてみた。

■ 2005/03/19
    悲しい事故が起こった。
    実家から自宅に戻ってきたところ、なんとトイレの電気がつけっぱなしだった。
    豆球さえもったいないので消灯しがちなわたくしには、まったく考えられない失態であった。
    この電気代だけで、たぶん一日ぐらいは餓え死にを先送りできたに違いないと思うと、悲しみのあまり即身成仏したい気分。
    矛盾?
    人なれば矛盾大いに良し。

■ 2005/03/16
    一級謝罪師の免状を持っており、ヘッドスライディング土下座やローリング平身低頭といった超スキルを身につけているわたくしであるが、さすがに半年も原稿を延ばしていると、謝罪の言葉もなくなってくるわけである。
    それにしても、ふと気づくと複数の編集さんをかなり長期間待たせてしまっている。
    正直、内心冷や汗である。
    ギャラクティカマグナムのような、必殺の謝罪技を新たに編み出さねばならぬと思案する昨今であった。
    そういえば、今年はなんとしても4冊出版しようと決意していた。
    いまのところ3冊はなんとかなりそうな気がしているが、4冊目は難しいような気配である。
    4冊分の原稿を書く、というあたりに下方修正しておこうとか考える。
    ちなみにわたくしの場合、書き上がった原稿を編集者に持っていって、そこから出版計画に乗せてもらうという微妙にテキトウなスタイルをとっている。
    催促されて焦っても結局、書きたくなったものを書きたいときに書いてしまうという烈しくクズな姿勢で仕事をしているわけである。
    知り合いが少ないのでよくわからないのだが、こういうスタイルでやっているライトノベル作家の方って、どれぐらいおられるのだろうか。
    ぼくはだいじょうぶなんだろうか。
    考えるほど怖くなってきたので、考えるのをやめる。

■ 2005/03/12
    いま実家に滞在している。
    で、タモリさんの坂道入門に触発されて、実家の近所の坂を撮影。
    江戸の坂のような由緒などはないのですが、なかなかの名坂なのではないでしょうか。
    いまどき、アスファルト未舗装の坂なんてなかなかないですよ!

    ところで、実家に戻る際、久しぶりに京阪電車に乗った。
    ここの特急電車は面白い。
    テレビカーとか二階建て車両とかあるのだ。
    そして特に、二階建て車両の一階座席がすごい。
    ちょっと考えられないような烈しい位置の低さっぷりである。
    ホームの地面が、乗客の肩あたりにくるのだ。
    つまり、座席に座っていると、ホームに立っている人の靴が目の前に来るわけである。
    視線はちょうど、ホームに寝そべっている感じ。
    もしスカートの人が電車近くに立ってたら、著しくパンツ丸見えである。
    これは正直、目のやり場に困るわけである。
    偶然ホームの女性と視線が合ったりしたら、あらぬ嫌疑を受けそうで怖い。
    ふと気づくと、病院のベッドでセクシー科の医者に治療されてるみたいな事態にもなりかねない。
    動揺のあまり、なんだかよくわからないことを口走っている。
    なんとかしてもらいたいもんである。

■ 2005/03/09
    近くの家電ショップで売っているシャワートイレの宣伝文句が気になっている。
    ポップに書かれたその文字、「天使のような洗いごこち」。
    ……。
    ところで周知のように愛のエンジェルであるわたくしだが、人の尻を洗ったことはない。
    宣伝文句が誤っているのではとも思ったが、そのわりにはクレームなどが発生している様子もない。
    みな違和感を持つことなく、それを受け入れている様子である。
    となれば論理的に、以下の推測のいずれか、あるいは両方が成り立つはずである。

    1.わたくし以外にも天使はたくさんいて、彼らは尻を洗っている。
    2.わたくしは実は天使ではない。

    しかし、プリティとダンディ夢のコラボレーションといった姿をしたわたくしに限って、2はありえないわけである。
    となると、世の中にはたくさんの天使が一般人にまぎれて生息していることになる。
    彼らは頭の部分が軟体動物に寄生されていて、人間の尻を洗う時だけ真ん中から割れて牙とか触手とかが出てくるのであろう。
    中には右手だけに寄生された者もいて、ミギーと呼んだりしてるであろう。

    どこかで聞いたような話だが、気にはしない。

■ 2005/03/06
    スーパーで買い物をしてた。

    それにしても、引っ越し後に一番テンションが下がるのは、スーパーの物価が前よりも高い時である。
    前に住んでたところでは、カレーマルシェがたまに100円ぐらいで売られていた。
    気高いわたくしは、いつもその日を狙ってカレーマルシェを大量に購入しておられた。 そのため、引っ越した時点でゆうに二十個は備蓄があった。
    その蓄えもとうとう尽きてしまい、カレーマルシェをこちらのスーパーで買わねばならなくなった。 しかし、こちらではなんと250円ぐらいするのだった。
    光栄の大航海時代なら、この差額で一儲け考えるところであった。
    それにしても一個250円はつらすぎる。
    しかし、もういまとなっては、100円クラスのレトルトでは我慢ができないわけである。
    わたくしの舌はもう、マルシェでなければ満足できないわけである。
    そのため、泣きながら250円でカレーマルシェを購入した。
    でも、150円損したような気持ちが重荷になり、なんにもやる気がなくなる。

    そんなみみっちく小さい人生を送るわたくしと同い年の有名人……
    ライブドアの堀江社長。

■ 2005/03/05
    常日頃から事故チュウに関する思索を怠らないわたくし、前回は長い思考の末に、事故チュウが可能であることの不確定性原理を用いた美しい証明を提出した。
    ちなみに事故チュウとは、曲がり角で遅刻寸前の女の子に衝突してチュウをしてしまう現象のことである。
    などと書いた段階で、だんだん自分が頭の可哀想な人のような気がしてきて書くのをやめる。
    ふと我に返ってしまったわたくし。
    仕事もせずこんな日記を書いている場合ではない。
    そしてもちろん、ヤフオクで購入したラテラル・サイ・トレーナーをえんえんやっている場合でもない。
    もう自分が何を言っているのかもよくわからない。

■ 2005/03/02
    当タフガイのタフガイによるタフガイのための日記が持つ重大な欠点、それは、人と会ってどこそこに行ってこんな話をした的記述がほとんど見当たらないことである。
    どうしようもない思考の跡ばかり残されているわけである。
    作家の日記といえば、たいていは編集者や同業者に会った話がよく出てくるものである。
    読者にもそのあたりのことが期待されているに違いないのだ。
    これはゆゆしき問題であると言えよう。

    が、ふいにわたくしは、この問題を一挙に解決する方法を考えついた。
    それは「日記」を「コラム」もしくは「エッセイ」に題目変更するという作戦であった。
    「日記」だと、人に会った記述がぜんぜんないと奇妙に受け取られるが、「コラム」などであれば、その日考えたことばかりを書いていてもなんら違和感がないというわけである。
    なんという巧妙な作戦。
    恐るべし。
    再三述べてきたことだが、目先の問題をいかにごまかしてやりすごすかということだけを常に考えてきたわたくしの智謀、いまや本領発揮と言えよう。

    で、タイトルを「ひみつコラム」あたりに変更しようとしたのだが、一つ問題が発生した。
    それは、コラムとかエッセイとか名乗って、人気作家を気取っているように思われないかという問題であった。
    大丈夫か。このわたくしがコラムなど名乗ってほんとに大丈夫なのか。
    悩んだあげく、そのあたりのことを脳内隣のお姉さんに相談してみた。
    すると、脳内隣のお姉さんはにっこり微笑み、中腰になってぼくの顔をのぞき込むようにしながら、
    「だいじょうぶ。キミのことなんて誰も気にしてないんだよ」
    と元気づけてくれた。
    脳内隣のお姉さん、天然のため意外に毒舌。

■ 2005/03/01
    電車といえば、切符販売機のお札挿入口の尊大さと思い上がりには、さすがのわたくしももはや黙ってはいられないわけである。
    というのも、ヤツらは瞬時にお札を突っ返してくるじゃないですか。
    「ハイ、これダメ」
    って感じで。
    ウソでもちょっと調べるフリぐらいしろ、と身悶えるように言いたいわけである。
    それを、0.1秒で突っ返すってなんなのさ! アンタ、あたいのなんなのさ!
    と、気分はもう宇崎竜童である。
    だいたい、間違ったことを自信を持って主張し、周りの意見は聞き入れず、結果責任は他の気弱な人に押しつける、って、男性のイヤな部分を凝縮したような野郎だ! と田嶋先生の口調で主張したくなるわけである。
    「少々お待ちください、ただいま調べて参りますので……。……お待たせ致しました。申し訳ありませんが、こちらではちょっと確認がとれないので、他のお札をご利用いただくか、あるいは窓口の方までお越しくださいませ」
    といった雰囲気を醸し出すぐらいの間は入れろと言いたいわけである。

    それぐらいの無意味な間があいたらあいたで、やはり身悶えるに違いない自分の狭量っぷりにはあえて目を向けずにいる。

■ 2005/02/27
    ここのところ、よくトップのトルコ写真を変更している。
    これらは「とるこ日記」では使わなかった蔵出し写真なのであった。
    そこはかとなくレアと言えよう。

    ところで実話だが、昨日久しぶりに電車に乗った際、電車とホームの隙間に足を取られてつまずき、車内でもんどり打ってすっころんだ。
    男女5人ぐらいのヤンキーっぽい高校生の集団にゲラゲラ笑われ、迅速につり革で首を吊りたくなった所存。
    そもそものきっかけを言えば、電車で席を譲ろうとしたのが誤りの始まりであった。
    おばあさんに、
    「いえ、結構ですんで」
    と断られたんですが、あれってすごい恥ずかしいんですよね。
    席を立っている自分がいたたまれないというか、居場所がないというか。
    で、
    「いえ、もう次で降りますんで」
    とか言って扉の方に逃走、次の駅でホームに出てから、隣の車両に移動する作戦を採ったのであった。
    が、あわてていたのがよくなかった。
    乗り込む際、隙間に足首を取られ、扉の縁に引っかかってスーパーマンのような姿勢でダイブ。
    結局、高校生たちの視線に耐えられず、次の駅でまたもや隣の車両へ移動するわたくし。
    帰路、生まれてこなければ良かったといった類の、覇者に相応しい言葉を心の内で反復しつつ一日を終えた。

    ところで、今日は銭湯に入った。
    天然温泉の露天風呂があって驚いた。
    それにしても、昼間だというのにずいぶんと混雑していた。
    周囲の人々を見回したところ、ものすごくたくさんの人がいるにもかかわらず、やはりおっぱいは存在しなかった。
    おっぱい非実在論はこれで証明されたと言えよう。
    あと、自販機になんと懐かしの「フルーツ牛乳」が入っていた。
    今日び、瓶入りのフルーツ牛乳に出会えるとは、なんたる幸運。
    わかっている! ここのご主人は銭湯のなんたるかがわかっている!
    帰路、生まれてきて良かった、と反復しつつ一日を終えた。

■ 2005/02/23
    常日頃からおっぱいに関する思索を怠らないわたくし、前回は長い思考の末に「おっぱい非実在論」に到達したことを報告した。
    これは「『私』の認識しうる対象のみが、存在するものとして認められる」というデカルトの考えから、わたくしには認識し得ないおっぱいというものも実はこの世に存在しないものなのだ、と結論づけた議論であった。
    が、この考え方には落とし穴があることに、鋭いわたくしは鋭く気づいた。
    上記のような主観−客観図式を保証しているのはなんであるか、という問題である。
    これはとりもなおさず「神(絶対者)」であると言わざるを得ない。
    絶対者たる神の誠実を前提として、議論が組み立てられているというわけである。
    これは良くない。

    基本に立ち返って思索を続けてみる。
    まずは、おっぱいの「本質」について考えよう。
    おっぱいとはまことに不思議なもので、あらゆるおっぱいはすべて形状を異にしているにもかかわらず、我々はそれをおっぱいであると認識する。
    大きさや形など個体によってまったく異なっているし、さらには喉元や上胸部との境界も定かではないのに、我々はどのようなものがおっぱいであるかを完全に把握しているのである。
    しかし、何故それをおっぱいと認識できるのか、おっぱいをおっぱいたらしめている本質とはなんであるのか、それに答えられる者は存在しない。

    つまり、「何がおっぱいであるか」については我々は完全に答えられるのに対して、「おっぱいとは何であるか」については我々はまるで答えることができないのである。

    これは、おっぱいの真なる本質としての「おっぱいのイデア」なるものが存在し、そして我々が現実に見るおっぱいは、この「おっぱいのイデア」の現実世界への投影であることの証左であると言えよう。
    光の当たる方向によって影の形が変わるのと同じように、おっぱいのイデアからの投射方向によって、おっぱいの形状も変化するというわけである。

    次回は、この「おっぱいのイデア」の是非についてさらに深く議論する。

■ 2005/02/22
    廃屋って、なんか心にしみいるものがありませんか。
    遺跡を見たときに通じるような。
    なんというか、ここで昔いろんな人が笑ったり悲しんだりいろんな生活を営んでたんだけど、そうした記憶はすべて散逸してしまって今はすでになく、気配の残骸だけがそこにひっそりと残されている的雰囲気がたまらんと言いましょうか。
    やっぱりあれは遺跡の一形態ですよ。
    心ある人間なら、こみ上げるものがないわけありませんよ。
    そのため、ここのところ廃屋を探してはデジカメで撮影することにはまってますよ。
    「廃屋を愛でる部」というクラブも密かに発足しました。
    部長はわたくし。
    副部長はしいたけ。
    (つまり誰もいない)

    そんなわけで、部員を増やすため、廃屋がいかに心癒される存在であるかについて知人に力説したところ、
    「アンタそれは心の病気ですよ」
    と言われる。
    ちなみにこの知人は、わたくしが何を言っても「ノイローゼだ」とか「頭の可哀想な人だ」とかしか言わない。
    わたくしが悪いのか、それともこの知人は誰に対してもそうなのか。
    真実を知りたくはない。

    というわけで、廃屋を愛でる部に入りたいという方はいつでもメイルください。
    活動内容は何もないですけど。
    近所の廃屋でも撮影して、わたくしに送ってください。
    いつか、廃屋を巡るツアーとかやってみたいものです。

■ 2005/02/20
    トップにも書いたが、近々J-BOOKSのサイトでトルコ旅行記が連載されるらしい。
    半年も前に行った旅行の日記が何故いまさら、と思われる方も多いことであろう。
    理由は単に「めんどくさかったから」。
    しかし、飛行機代をウッカリ受け取ってしまったので、書かないわけにはいかないのであった。
    これはもう、原稿料を前借りして仕事をしているようなもんであると言えよう。
    わたくしもついに中村うさぎ先生クラスに到達したか、と感慨もひとしおである。ウソである。

    とはいえ、もう原稿はぜんぶ書いてしまってるので、あとはお任せ状態である。
    7回ぐらい連載されるらしい。
    見ても何のためにもならない文章なので、ヒマすぎて死にかかっている人だけ読んでください。

    ところで、前回カセットブックをプレゼントしますと書いたところ、女子高生からの応募がいくつかあった。
    これはおそらく、わたくしが「定金の腐敗した魂を回復するような言葉とともに応募してください」と記述したため、あえて読者が女子高生を装ってくれたのに違いなかった。
    でなければ、わたくしのようなガラクタに女子高生がメイルなどくれるわけがないのであった。
    とはいえ、女子高生はなかなかよい作戦ではあるものの、まだまだ甘いと言わざるを得ない。
    なぜならば、わたくしは「隣のお姉さん」でなければ心動かされない。
    中腰になって少年の額をつんと押し、「みんなには内緒だゾ」と言って微笑するみたいな甘やかしの言葉をつとに期待する所存である。

    (一応書いときますが冗談ですよ。
    みなさまご応募ありがとうございます)

■ 2005/02/18
    久しぶりの日記となった。
    というのも、ネット環境をちょっと変えてみたからだった。
    仕事柄、ネットをしていると身投げしたい気分になることがままあるわけであり、仕事の差し支えになるということで、ネット環境を仕事部屋から撤去してみたのであった。
    そんなわけで今は、ネットは寝室でのみ可能な状況となっている。
    これからは、寝る前に日記を書くことになろう。
    ちなみにわたくし、寝る前に座椅子で焼酎を飲みながらビデオを見るのが唯一の娯楽である。
    そのため、この日記も酔っぱらい日記になる可能性大。
    おそらく、支離滅裂な文章になる。
    手抜きオンパレードになる。
    パクってすみません。
    要するに、もともと読む価値も何もない日記だったが、そのどうでもよさ加減がさらに加速するというわけである。
    というか、こんな話自体がまさにどうでもいいと言えよう。

    ところでずいぶん前の話だが、引っ越しの際に荷物整理をしていたら、「ジハード」のカセットブック(CDブックではない)が数本発掘された。
    欲しい人おられますかね。
    おられませんかね。
    もしおられたら、定金の腐敗した魂を回復するような甘やかしの言葉とともに、その旨をメイルで知らせてください。

■ 2005/02/09
    携帯電話が見つかった。
    例によって仕事机で寝ていたところ、突然引き出しから、
    「ヴ……ヴ……」
    という呻き声のような音が聞こえてきたので、ついにうちにも22世紀からネコ型ロボットが来てくれたのか、ダメな子でよかった、と考えていたところ、それが実は携帯電話のバイブ音だった。
    まさか、引き出しの中になど潜んでいようとは。いったいいつの間に。
    そんなところに片づけた記憶などないし、入れる理由もないのであった。
    いやはや、妖精のいたずらはあなどれませんよ。

    しかし今回の経験で、わたくしは卒然と、あまりにも凄すぎる裏技を考えついた。
    その裏技、
    「自宅で携帯をなくしたら、自分の番号に電話をかければすぐに見つかる」
    さすがはわたくしの発想力。
    あらゆるトラブルに対して、臨機応変に対応する術を身につけているだけのことはあると言えよう。
    できる男はやはり違う。

■ 2005/02/06
    昨年末に購入した携帯電話を、いきなり紛失。
    あまり外に持ち出してはいなかったので、自宅内にあるのではないかと思うんですが……。いったいどこに行ったのやら。
    まあ、手に取られるのが十日に一度ぐらい、というなかなかダンディな端末となっていたので、とりあえず、もともとなかったものとしてやりすごしておくこととする。たぶん、そのうちでてくるでしょう。

    ところで、どっかの大学では、授業の出欠をとるのに携帯電話が必要という話は本当ですか。
    今後、他の大学でも導入されていく予定だとか。
    ほんと15年遅く生まれなくてよかった。
    いまぼくが学生だったら、卒業できないところでしたよ。
    それにしても、学生は全員漏らさず携帯を持ってるんですかね。
    全員が毎月数千円も負担できるというのが信じられません。
    ぼくなんて、インスタントラーメンにトイレットペーパーを混ぜてカサまししたりしてたのに。
    15年前より今の方が景気がいいってこともないだろうしなあ。
    いったいどうしてるんだろうか。
    そういえば、今は進学塾に入らないと大学進学はムリという話も聞いた。
    それぐらいの金銭的余裕が進学には不可欠になっているのだとか。
    つい15年前は、進学塾や予備校に行ってる人の方が珍しかった記憶があります。
    少なくとも、ぼくの周りではほとんど見かけませんでした。
    聞くところによれば、今はまったく事情が違うとか。
    だとすると今の中高生はえらいたいへんですね。
    そういうのの気晴らしに自分の小説がなれればなあということを考えます。
    それに、そんな時に読んだものの方が、あとあとまで印象が残りますしな……。
    うわ。打算的な記述。

■ 2005/02/04
    書くことがなんにもないので、仕事用PCのデスクトップでも取り込んでみた。
    ファイラーの壁紙には、昔やってたゲームの画像を使ってます。
    確か、ファミ通のおまけについてたやつでした。
    いや、違ったかな。忘れた。
    とにかくこのイラスト、女の子が可愛いのとWINFDの黒背景に合うこともあって、ずっと気に入って使ってたのです。
    そんなおり、ブラックランドのイラストが星さんに決まった時に、
    「こういうイラストを描く方ですよ」
    と編集者から送られてきたサンプルが、なんと偶然にもこれと同じ画像。
    珍しいこともあるもんだというか、世間は狭いというか。
    わたくしは幸運な人間ですよ。
    そういえば星さんには年末のパーティでお会いしました。
    並んで写真を撮ってもらいました。
    コバルトのパーティには、何故かポラロイド写真を撮って手渡してくれる係員が巡回しているのですが、その人が撮ってくださったのでした。
    星さんと美少女編集者の二人に挟まれて身を小さくしているわたくし。
    ご存じの通りわたくしには、一つの場で許容できるおっぱい数がぎりぎり一個までという限界があるため、顔が引きつっておりますよ。
    これぞへなちょこの真骨頂。
    いやむしろ醍醐味。

■ 2005/01/31
    今日は原稿催促の電話があった。
    久しぶりに電話に出てみたら、編集者だった。
    ちなみにぼくは、電話のところまで動くのがめんどくさいという最悪の理由で、起きてても電話に出ないことが多い。
    気が向いて受話器を取ってよかった。
    出てなかったら、逃げたと理解されていたに違いない。
    それにしても、半年近くもお待たせしながらなおチンタラしているとは、われながら社会人失格と言えよう。
    すみません。
    いやほんとに。
    さすがの某美少女編集者も、声には出さないがそろそろ怒髪天に達しているであろう。
    やばい。
    ちなみにこの某美少女編集者は、星座に採用されている生物の半分ぐらいは素手で仕留めてきたという逸話で有名である。
    いま考えた逸話ですが。
    なんにしろ危険なので、急いで仕事を仕上げねばならぬ。
    星座といえば、ぼくは射手座なんだけど、射手ってなんなんですかね。
    他の12星座は、獅子とか蠍とかのかっこいい動物だったり、まあ少なくとも実在する物で占められてる訳じゃないですか。
    しかるに、射手座だけ、なんだかよくわからない謎の生物。
    子どもの頃から実に気になっていたのであった。
    いやむしろコンプレックス。
    それにしても、木々の間を歩いているとそれだけで小鳥たちが周りに集まってくるわたくしが射手とは、なんとも皮肉な話と言えよう。
    などとくだらないことを考えてるヒマがあるのなら、仕事をせねばならない。

■ 2005/01/26
    今日は仕事の途中で、椅子に座ったまま眠ってしまっていた。
    で、ふと目が覚めると、お尻が異常なまでに痺れていた。
    尋常ではないというか瀕死状態というか、もはやいまだかつてない痺れっぷりだった。
    まったく感覚がなく、立ち上がるのも一苦労といった趣。
    わたくしは必死で右尻に向かって、
    「どうしたんだジョセフィーヌ! しっかりしろ!」
    と呼びかけたが、返事すらなかった。
    ちなみに、わたくしの右尻はジョセフィーヌ、左尻はエリザベスという名で社交界では知られている。
    出版社パーティなどでわたくしに挨拶するときには、二人にもちゃんと丁寧に挨拶をしてもらいたいものである。
    まったく、最近はそのへんの礼儀がなってない業界人が多くて困る。
    なんにしろ、ややあってようやく、左尻のエリザベスから反応があった。
    しかし、
    「わ……わし、こりゃもう、あきまへんわ……」
    と、もう息も絶え絶えだった。
    「何を言ってるんだエリザベス! 気を確かに持つんだ!」
    「こ、こんど生まれる時も、わしはあんさんの尻に生ま……れ……」
    「エ、エリザベスー!」

    と、そんなわたくしのドラマチックな日常生活。
    これほど波瀾万丈な人生を送っている男も世に少なかろう。
    そのため、ここ一ヶ月ほど人と会話をしていないような気がするが、どちらかといえば平気。

■ 2005/01/24
    以前書いたジャングル黒べえの反響が大きかった。
    「自分も知っている」というメイルが大半であった。
    あんなありえないものを知っている人がこれほど多く存在するというのは、いったいどういうことですか。
    やはり集団幻想というやつですか。
    集合的無意識を通じて、ジャングル黒べえの映像が伝染しているのでしょうか。
    どこかに、ジャングル黒べえ教というのを創始した教祖とかがいるのですか。
    日本はこの先いったいどうなるのですか。
    信徒はみな布教と称してジャングル黒べえの像を売りに来ますか。
    ジャングル黒べえのテーマが流れる中、化学兵器を開発しますか。
    そのうち政府に弾圧されて地下に潜り、十字架にかけられたジャングル黒べえを胸に抱いて殉教しますか。

    オチが思いつかなかったので唐突に終了。

■ 2005/01/22
    わー!
    J.H.ブレナンのゲームブックシリーズが復刻されてるじゃありませんか!
    暗黒城の魔術師」というやつですよ。
    これ、小学校〜中学校の頃に烈しくはまったのですよ。

    ゲームブックというのは、
    「君はいま十字路にいる。右に行くなら8へ。左なら29へ」
    みたいな分岐で遊べる本です。
    なんとなく辛気くささを感じるかもしれませんが、ぼくも同感でした。
    ただ、ブレナンのこの「ピップ・シリーズ」だけはすごく楽しかったんですよ。
    雰囲気があるというか。
    なんというか、文章がまず違うんですよね。
    読む人は作中の「ピップ」という主人公になる設定なんだけど、
    「さあ、正念場だぞ、ピップ。慎重に選択肢を選ぶんだ」
    とか、
    「ピップ、こんなばかげた判断をするなんて、まったくどうかしているぞ」
    とかみたいな、本の中から語りかけてくる独特の文章なんですよ。
    一つ一つのシークエンスも、やたら長くて印象深いし。
    ヘンテコな常連キャラも個性的ですごく面白かった。
    語り口って大事ですね。
    RPGもなかった時代のことなので、別世界と直接関われるような雰囲気を感じされてくれたものは、ぼくにはこの本ぐらいのものでした。
    これはもう猛烈にわくわくしたものです。

    ちなみにこの一巻は、夏休みの宿題で神社へ写生に行った時に、境内で読んでいた記憶があります。
    炎天下でゲームブックを熱心に読んでいる少年って、傍目にはさぞかしキモかったことと思いますが、当時はそんなことなんにも気になりませんでした。
    じつに懐かしい。
    鳥居のところで足を滑らせて階段から転落し、下にいた幼なじみの女の子とぶつかって身体が入れ替わったことも、いまとなっては懐かしい思い出です。
    て、転校生……。

    それにしても、当時はライトノベルというものがまだなかったし、しかもぼくは受験時代まで小説なんて読んだことなかったので、中学時代の読書体験はこれぐらいのものです。
    まったく、「ピップ・シリーズ」と「BEEP」というゲーム雑誌と、水島新司しかない中学時代でした。
    十代の頃に触れたものって、後々まで印象が強く残りますね。
    自分の小説もそうなれればいいなとよく思うのであります。