昼寝して、それから起きるとえらいことになっていた。家の外で何か騒々しい物音がするので仕方なくのそのそと見にいくと、なんとバハーウッディーンと姫が大ゲンカをしていたのだった! 「いきなりなにしやがんでェ、このくそじじいっっ!」  どこの子供がいきりたっているのかなあと思いながら見に行ったんだけど、あろうことかその声の主は姫さまだったのだ。なんともはや……元々おしとやかから程遠い性格だったというのに、まださらにそこから遠くに離れる余地が残っていたとは。  と、あまりの衝撃で真っ白になっているうちに、派手なケンカはさらに進行していた。いつの間にか姫がバハーウッディーンに捕まって逆さに吊り下げられていたのだ。姫は両手と胴体を使って暴れまくっていたけれど、バハーウッディーンはそれをものともせず、姫の身体を空中でぐるぐると振り回した。 「て、て、てめェ、ぶっ殺してや・・・・ぶっ」  で、かわいそうに、姫はいきなり地面に叩きつけられたのだった。顔からまともに落ちたのでかなり心配したのだけれど、ちょっと鼻のあたまがすりむけて赤くなっただけだったので、安心した。 「痛ってぇーっ!! てめェ、オレを殺す気か!!」  うーん、完全に姫の心は不良少年のものになってしまっているな……このままずっともとに戻らなかったらどうしよう。普段からよく、 「わたしはシャラザードみたいになりたいのじゃ」  と言って、そのシャラザードにずっとくっついていたというのに。ちょっと目標が高すぎて、その反動も大きかったのかもしれない。でも、容姿だけならそんなに負けてはいないと私自身は思うのだけれども。  そういえばこないだ、そのことでシャラザードにたしなめられたんだった。 「姫さまはご自分の容姿に自信をあまり持っておられないんですから、たまにはほめてあげてくださいね」 「でも、私の前では、『こんな美人の下で働くのは幸せじゃろう』 とか、『私はそんじょそこらの美女とはこれはもう完全に次元が違っているのじゃ』 とか言ってるぞ」 「それはあのご性格ですから、引け目をわざと大声でおっしゃってるんですよ。今日はきれいだねっていうようなことを、たまには言っておあげなさいな」 「でも、だよ。美人というにはちょっと小さすぎる感じだし、かといって可愛いというと馬鹿にするなって怒りだすし、美女とか麗人とかはなまめかしい感じで全然ぴったりこないし、可憐というのが一番似合ってるような気がするけれど、あのとんでもない性格にはちょっとへんだし……」 「もう、そんなのは正確ではなくてもいいんですから」 「うーん、そんなものなのかなあ」  私はよくわからなかった。まあ、ほんの数年前まで女性としゃべったこともなかったもんだから、しょうがないといえばしょうがない。そのうちわかるようになるだろう。じつにへなちょこだ。  とにかく、姫が何ごとにつけても自信満々だと思っていたのは間違いだったようなのだ。それには結構びっくりしたものだった……というようなことを思い出していたら、いつの間にか姫がぼろぼろになって恨みがましげな目でこっちを見ていた!  しまった、助けるのをすっかり忘れていた。どうも私の体内時計は極端に遅れているらしくて、いつもぼんやりしているうちに周りの状況が恐ろしくあっという間に変わってしまうのだ。 「ようし、ここで敢然と姫を救い出して点数を……」  そう意気込んでひょいひょいと私は二人のほうに近付いていったのだけれども、ちょっとそれは遅すぎたらしい。私がそばまでいく前にバハーウッディーンは姫の足を放したのだった。  ガツンッッ  姫の頭から、岩を鉄球で殴った時のような音が響き渡った。そして地面に横たわった姫は、しばらく何か悪いものにでも取り憑かれたかのようにぴくぴくしていた。私はちょっと泣きそうになったほど心配して、姫の側に駆け寄った。 「これはいくら何でもひどすぎるじゃないですか」 「ふん、この程度の稽古などで音を上げるような男には育ててはおらぬ。こいつが幼い頃には、もっと厳しい稽古を付けてやっておったものよ」  バハーウッディーンは姫の髪を掴んで顔を起こした。そしてその頬を拳で思い切り殴って姫の目を無理矢理覚まさせたのだった。 「おぬしに最後の機会をやる。この次におぬしがいう言葉がもし真実ならば、半殺しで勘弁してやろうではないか。しかし、もしそれが嘘ならば、その時こそおぬしをブチ殺してくれる!」  うーん、過激だなあ。それにしても、もうろうとしている相手にいきなり難題を押し付けるというこの道理の通らなさ、さすがは姫の師匠で、なかなかにそっくりだ。というより、この師にしてこの弟子あり、といったところだろうか。  しかしとにかく、私は姫がこれ以上痛い目に遭うのは見たくなかったので、ちょっとずるをして姫を手助けしたのだ。何せその時の姫はなぞなぞを考えていられるような状態じゃなかったのだから。  私はバハーウッディーンの背中の後ろから、私が考えた答えを書いた紙をちらつかせたのだった。  その答えとは、 「わたしは自分のことを女だと思っている」  というものだった。別に内容はどうでもよかったのだけれど、とにかく姫が心の中で考えていることなら、バハーウッディーンも正しいか間違いか判断できなくて、とても結構だろう、と思ったのだ。  が、姫は私の紙を冷たい目でちらりと見ただけで、それをまったく無視したのだった。 そうか、人に助けてもらうのは武士として恥ずべき事と姫は思っているのだろう。あ、いや、しまった! 自分のことを女だと思っているっていうんじゃあ、その自分は女ではないってことになってしまうんだ! 姫はそれが気に入らなかったに違いない!  が、事実はそんな馬鹿げたことではなかったのだ。  姫はバハーウッディーンの問いにこう答えた。 「わたしはじじいにぶっ殺されるだろう」  頭の回転が我ながらちょっとのろい私は、姫がいったい何を意図しているのか、その時さっぱりわからなかった。  ところが、バハーウッディーンは、 「むう……やるな、こわっぱ」  と、感心したように唸って、姫に何の手出しもしなかったのだ。  私は、事情が飲み込めず、しばらくポカンとしてしまった。  そしてかなりの時間が経ってから、ようやく姫の答えの意味が理解できた。  つまり、こういうことだろう。  バハーウッディーンは、 「おぬしの言葉が正しければ半殺し、間違いならぶっ殺す」  と言った。で、姫は、 「わたしはぶっ殺されるだろう」  と答えた。  この時、「殺されるだろう」という姫の答えが正しいとして姫を「半殺し」にするなら、姫は殺されないのだから、姫の答えは間違いとなって矛盾する。逆に、「殺されるだろう」という姫の答えが間違いとして姫をぶっ殺すなら、「自分はぶっ殺されるだろう」という姫の答えは正しくなってしまって、これまた矛盾してしまうのだ。  そういうわけで、バハーウッディーンは姫を半殺しにも全殺しにもできず、感心するほかはなかったのである。素晴らしい。姫ってやっぱり天才だ。  結局、わたしはただの狂言回し、場違いなおばかだったようなのだ。ああ、もっと頭が良くなりたいなあ。 「ふっ、殿下もなかなか成長なされましたのう」 「おぬしもまだまだ老いぼれてはおらぬようでわたしも安心したのである」  いつの間にやら、二人は普段の口調に戻っていた。どうやら、この二人にとって今日のようなケンカは、ごくごく日常の取るに足らないことなのであるらしい……ちょっと私にはついていけそうにない世界だ。  そして、姫とその老師の二人は肩をがっしりと組み合って、夕日に向かってずんずんずんと歩き去っていったのだった。ひと組みの長い影が、とり残された私の目の前の道を撫で去っていく。  それにしても、「拳で語り合う男と男の炎の友情」とか、「熱く燃え上がる男の魂の交流」とかいう言葉がこれほど似合う女性は、たぶん人の世ではこの姫以外にはいないんじゃないか、と私は思うのだ。思うだけで口には出さないけれど。