昨日ヴァレリーの教育において素晴らしい成功を収めたわたしは本日も、かの者を清冽な真の求道者へと育てあげるべく彼の部屋を訪れた。あやつはわたしと違って、怠惰の魂を持っている。今はまだこのわたし自らが日々監視し、そのたるんだ精神を叩き直してやらねばならないのである。  ところが、わたしが彼の部屋を覗いた時、そこにはすでに先客がいた。単に先客がいただけならば、「ところが」と述べる必要はなかったじゃろう。実はその先客の正体におおいに問題があったのである。  ヴァレリーの部屋をわたしより前に訪れていたその男は、国家の宿老バハーウッディーンであった。ちっ、やっかいなじじいめが。  ヴァレリーも知らぬ事なのであるが、このじじいは実はわたしの師匠、というよりほとんど育ての親みたいなものなのである。年令も名前もわからない戦災孤児であったわたしに、第一級の教育を施してくれたのがこのじじいだった。  それにしても育ての親に対してじじいとは何ごとかと言われそうじゃが、このじじいには実は恨み骨髄であるのでこれでよいのである。また恨み骨髄であるばかりでなく、さらにわたしはこのじじいが極めて苦手なのじゃ。  そこでわたしは仕方なく、素早く踵を返してヴァレリーの家を立ち去ることにした。言っておくがこれは逃亡ではない。戦略的撤退というやつである。  が、その撤退の試みは失敗した。 「おお、エルシード殿下ではござらんか、お久しぶりでございますなあ」  ちっ、こんな所に来るんじゃなかったのじゃ。ヴァレリーめ、後でこの報いをたっぷり思い知らせてくれるなのである。 「あ、ああ。おったのか、バハーウッディーン」  わたしは思わずじじいが来ていることに気付かなかったふりをしてしまった。まさかこのわたしが嘘をつくことになろうとは……これもみなヴァレリーのせいなのである。 「アーディルに何か用でもございましたのかな」 「う、うむ、でもまあ、たいした用ではないのじゃ、じゃ」 「わしがいれば何か不都合でもございますのか」  わたしは思わずびくりとして、身体を竦ませた。なぜなら、このじじいを怒らせると非常に危険なのだからじゃ。再び言っておくが、これは恐怖ではない。危機管理能力というやつなのである。 「いや、ただ学のないヴァレリーに学問の手ほどきをしてやろうと思っていただけなのじゃ」 「ほう、学問を」  ここまではよかった。調子に乗って口にしてしまった次の言葉がまずかったのじゃ。 「そうじゃ。そしてなおかつ、何かと考えの甘っちょろいあやつを厳しい現実に直面させる、という崇高な目的もあるのである」 「ほう、それで、厳しい現実とは例えばどういうものなのですかな」 「例えば、そ、そうじゃな、世の中には理解しがたい悪人がおるという事とか……」  その時バハーウッディーンの顔色がさっと変わった。わたしの返答とともにあの穏やかな顔が、突然鬼神のように憤怒の表情へと変化したのじゃ。余計なことを言わねばよかったなのじゃ。 「この、未熟者がっ!!」  いきなり、ガンッ、という鈍い音がわたしの頭のてっぺんから伝わってきた。そしてすぐに、目の前にきらきら光る手のひらのようなものが飛び散っていく。信じられぬ事かもしれないが、このじじいは、実はわたしを上回る腕力と頑健な肉体を持っているのである。 「いきなりなにしやがんでェ、このくそじじいっっ!!」  わたしは思わず、少年の頃の言葉遣いに戻って叫んでいた。その時視界の端のほうにヴァレリーの姿が映り、しまった、とわたしは思ったが、もうどうしようもない。まあ、いかに普段女らしいわたしとて、一日中おしとやかではおれぬことぐらい彼にも理解はできるであろう。 「だまれっ、このこわっぱ!!」  じじいとは思えんような、銅鑼の音みたいにばかでかい声でバハーウッディーンはわたしの耳を吹き飛ばした。 「理解しがたい悪人じゃと? 世間知らずの小僧が知ったふうなことをぬかしおって! 拳と魂で熱く語り合って、なお理解しあえぬ者などこの世にはおらぬわ!!」  これが、先にわたしが恨み骨髄と言った理由なのである。こんな熱血じじいに育てられたばっかりに、いまのごとく女らしくなるのにたいそう苦労してしまったのだ。  しかも、さらに許せんことには、わたしはバハーウッディーンが言ったような、熱く男っぽい理想がどうしようもなく大好きなのである。悔しいが、シャラザードみたいにはなかなかなれそうにない。  で、熱血の魂は大好きなのであるが、このくそじじいに歯向かうためにわたしはじじいに食ってかかった。 「てめェの言っていることはみんな空想じゃねェか! 現実はもっと厳しいんだ!!」  そう叫びながら、わたしは全身全霊全力をこめて、じじいに殴りかかった。岩をも砕くわたしの殺人拳である。じじいといえども少しぐらいはダメージを与えることができる筈。  が、その考えは甘かった。  ぐわし、という異様な破壊音とともにわたしはじじいの拳に跳ね返され、うしろに吹っ飛ばされた。宙を直進したわたしの身体が背後の壁に当たるまでに、たっぷり2秒はあったと思う。 「この愚か者が! このわしが久しぶりに一番稽古を付けてくれる!!」 「そんなもんいらんわ!!」  そう言い返しながらも、わたしはとんでもないことになったと後悔していた。前にこのじじいに「稽古」を付けられた後、わたしはたっぷり三日は起き上がれなかったのである。なにしろ顔の形まで少し変わってしまったほどなのじゃから。わたしは本当ならシャラザードのような美しい娘になっていた、というのもそれで信じてもらえるであろう。い、いまは美人から程遠いのかも知れぬけれど……  結局わたしはやぶれかぶれになって、再びじじいに向かって突進した。この鉄人じじいの身体にも弱点はあるはず。そうじゃ、目じゃ。目を攻撃されればさすがのじじいもひとたまりもあるまい。  わたしは宙高く跳び上がった。そして、その頂点から下降する勢いにまかせて、じじいの顔に必殺の蹴りを見舞ってやったのである。  じじいの目に爪先がめりこむ。しかし、勝利を確信したのも束の間のことであった。やつはまともにわたしの蹴りを受けたにもかかわらず、にやりと笑ってわたしの足首を掴んだのだ。やはりこのじじいは尋常な人間ではない。  わたしはじじいに足首を掴まれたまま、空中に逆さに吊り下げられた。頭に血が上り、髪が地面を撫でる。いかにも不快であったが、そんなことに構ってはおられなかった。「少しは大きゅうなったのう!」  じじいはどこか張り切っているような声で言った。わたしは逆さにぶら下げられたまま、まだ掴まれていないほうの左足でじじいの顔を蹴りつける。  しかし、その最後の抵抗もあっさりと退けられた。わたしは両の足首をじじいの右手に掴まれ、もうどうにも動きようがなくなってしまったのである。 「はなせ、この化物!!」 「やかましい、この未熟者めが。あらためて男の中の男の魂を、その身体に植え付けてくれよう!!」 「そんなモン植え付けられてたまるか!」 「拒否するとは小僧、男子としての意地はないのか!!」 「て、て、てめェ、ぶっ殺してや・・・・ぶっ」  ここでわたしが蛙がつぶれる時のような情けない声をだしたのは、じじいがわたしの身体を思いっきり地面に叩きつけたからであった。じじいは、まるで地面を耕すかのように、勢いよくわたしを叩きつけたのである。わたしは、受け身も取れずにまともに顔から石畳に落ちたのじゃ。 「痛ってぇーっ!! てめェ、オレを殺す気か!!」 「馬鹿者! 男の戦いとは常に命懸けのものだ!!」 「ふざけんな! オレは女だ!!」 「ほざくか!!」  再び、じじいはわたしの身体を地面に向けて振り下ろした。口の中に砂が入り込んで不愉快の極みである。普通の人間ならすでに気を失っていたに違いないであろう。このじじいのせいでわたしの身体は異常に丈夫になってしまっているらしい。なんとも腹立たしい。 「この、くそじじい、今度夜道を歩くときは背中に気をつけやがれ!!」  べちゃっ 「はなせ、ちくしょう、はなしやが……」  べちゃっ 「……こ、このクサレじじ……」  べちゃっ 「……ちょ、ちょっと待っ……」  べちゃっ 「……」  さすがのわたしも、何度も地面に叩きつけられてすっかり参ってしまった。顔は真っ黒に汚れていたし、髪はほこりまみれである。胸はというとこれはもうつぶれてぺしゃんこになってしまっていたのである(もともとじゃけど)。こんな格好で家に帰ったら、またシャラザードにすごく怒られてしまうのである。こわいのである。 「……ヴァ、ヴァレリー、助けろ」   わたしはヴァレリーに助け船を求めて、彼の方をちらりと見やった。かよわい女性がこんなひどい目に遭っているのであるから、まともな男なら敢然として救い出そうとするのが当然の筈じゃ。ところがあの間抜けな薄情野郎は、 「えらいもんだなあ」  とか、 「こんな晴れた日にはお日さまの下で昼寝をするのがいいなあ」  などと、わけのわからんことをほざいていた。なんと肝心なときに役に立たんやつであろうか。許せん。  すると、その時ようやくじじいがわたしの足首から手を離した。が、あまりにいきなりだったので、わたしはまともに頭のてっぺんからまともに地面に激突した。普通の人間ならこれだけで生死の境をさまようことになっていたかもしれない。 「……ううぅー……」  わたしはしばらく石畳の上で大の字になって唸っていた。身体中が猛烈に痛くてそれ以外の姿勢がとれなかったのである。 「この生意気な小僧めが。このままブチ殺してやっても構わんが、ここでおぬしに最後の機会をくれてやろう」  じじいはわたしの髪を掴んで、そのまま首をぐいと持ち上げる。脳みそを素手でかき混ぜられたような状態のわたしは、もうほとんど無抵抗じゃった。 「この次におぬしがいう言葉がもし真実ならば、半殺しで勘弁してやろうではないか。しかし、もしそれが嘘ならば、その時こそおぬしをブチ殺してくれる!」  いきなり無茶な無理難題をじじいはわたしに押しつけてきた。こういう道理の通らないむちゃくちゃな人間を、わたしは他にどこかで知っているような気がするがどうも思い出せない……  まあ、そんなことはどうだっていい。いまここで、わたしはこのじじいの問いにどう答えるのが最良なのであろうか。