彼はソクラテスを知らない。  彼は掛算ができない。  彼はマホメットが生まれた年を知らない。  それほど、「公正」ヴァレリーは学問が苦手だった。勉強が嫌いではなかったが、そういったことを学ぶ機会に彼はそれまでずっと見離されていたのだ。さらにいうと、積極的にそれらを独学で修めようというような気概もまた、彼にはなかったのである。  しかしながら、そんな彼の怠惰な無知が、エルシードによって好意的に認められる筈もない。おせっかいな彼女は一日中、この落ちこぼれ青年のまわりで、その小さい拳を振り回していたのだった。 「まったくもって、嘆かわしい! 哲学や歴史は人によって好き嫌いがあるゆえ、仕方のないこととしても! たかだか二ケタの掛算さえできないとは、きさまいったいどういうつもりじゃ!!」 「どういうつもりじゃと言われても……」  ヴァレリーには返答のしようがない。しようがないので、笑顔で逃げる。  最初のうちはエルシードもそれで誤魔化されていたが、しかしそう何度も通用するほど魅力あふれる笑顔でもない。次第に彼女のヴァレリーに対する寛容の精神はすり減ってゆき、しまいには彼の姿が目に入っただけで条件反射のように怒りだすようにさえなっていたのだった。  だが、 「勉強しろ! 勉強しろ! 勉強しろ!!」  と、朝から晩まで耳元で怒鳴り散らされるヴァレリーも、たまったものではない。彼の向学心は、当然の成り行きであるが、叱責の回数に反比例していった。  エルシードは苛立った。清冽な目標にむかって前進しない人間が、彼女は大嫌いなのである。学問、武術、精神、そういったものを高めるべく、あらゆる障害をはねのけながら懸命に努力する人間が好きなのだ。だというのに、ヴァレリーはエルシードのそういう期待をことごとく裏切る。  が、そんなぐうたらなヴァレリーをエルシードはなぜか嫌いになれなかったし、また、たちの悪いことに、放っておくこともできなかった。彼女はどうしても、ヴァレリーに清廉な努力人間になってもらいたかったのだ。なかなか傍迷惑な話ではある。  そういうわけで、エルシードとヴァレリーの二人は、勉強しろという言葉を媒介にして、毎日毎日飽きもせず不毛な鬼ごっこを続けているのだった。  しかし、鬼が追えば追うほど、当然獲物は逃げる。いくらエルシードが怠惰を叱り付けても、ヴァレリーは彼女の思うようには動かない。夜を撤して彼のために教科書を作ってやっても、彼はそれを読破する苦痛よりも、殴られる苦痛のほうを選ぶのだった。  そこで、ある日のこと。  業を煮やしたエルシードは一計を案じた。 ───分厚い書物などを押しつけるから、怠け者のあやつは逃げようとするのじゃろう。ようし、ならば身体を動かして楽しく学べる方法を考えてやろうではないか!  人の迷惑も顧みず、というよりそれにまるで気付かぬ様子で、エルシードは不良青年を叩き直すための教育の準備をせっせと始めた。 机の前にちょこんと座り、両手を小さなあごに当てて彼女はもの思いにふける。さらに迷惑なことに、「楽しく学べる方法」を実行するために、彼女から意味不明な命令が周囲の人間に次々と与えられた。  結局、エルシードのこの無邪気な計画は、のべ十数人もの人力を費やして、数日後ようやく完了したのだった。  喜びいさんだエルシードは早速ヴァレリーの家に飛んでいった。そして、嫌がるヴァレリーの手をつかんで、彼を無理矢理自分の屋敷のほうに引き連れていったのである。 「なんだよう、私は最近働きすぎで疲れてるんだ」 「嘘つけ! いいから、来い!!」  ヴァレリーが抵抗するので、エルシードは彼の顎の下に腕を回し、残酷にもそのまま首をねじ切るようにして彼の身体を引き摺っていった。ヴァレリーの顔は青紫色に変色していたが、彼女はそんなことにはお構いなしだった。そのうちに、エルシードの腕の中でやがてヴァレリーはぐったりして動かなくなってしまったが、やはりこの豪快な少女は知らんぷりである。  そそて、彼が次に目を覚ました時には、彼はすでにエルシードの屋敷の中庭にいたのだった。 「……」  ヴァレリーがこの時押し黙ってしまったのは、目覚めた場所に驚いたためではない。そこにあったものに彼は驚いたのである。 「またこんな馬鹿げた事にお金を使って……」  ヴァレリーの目の前に、エルシードそっくりの人形が六体、ずらりと並んで彼を睨み付けていた。誰に作らせたのかはわからないが、それらは非常によくできていて本物と区別がつかない。 「馬鹿げた事とはなにごとじゃ! 誰のためにシャラザードが苦労してこれを作ったと思っているのか!!」 「……シャラザードに作らせたのか。無茶苦茶だな。あれもさぞかし迷惑なことだったろうに」  壁を背にして座らされている人形の前にしゃがんで、ヴァレリーは人形の顔をしげしげと眺める。 「それにしてもよくできてるなあ。一体もらって帰ろうかな」 「……持って帰って何に使うつもりじゃ」 「いや、別にそんな変なことに使おうっていうんじゃなくて……」 「……変なこととは何じゃ? まあ、そんなことよりも!」  エルシードは当初の目的、すなわちヴァレリーの教育という目的を思い出した。年老いた教授のように背中に両手を回し、なるべく威厳たっぷりに見えるように注意しながらふんぞり返って彼女はヴァレリーの前に立つ。 「おぬしの勉学のために、これからある問題をくれてやる」 「……そんなものいらないよ」 「いいから聞け!」  言葉と暴力を同時に使用して、エルシードはヴァレリーの拒否を遮る。頭にできた大きなこぶをなでながら、ヴァレリーは渋々ながらも、謹んでエルシードの言葉を拝聴することになった。 「さて、いまここにわたしにそっくりな人形が六体ある。ここでこの人形たちはあまりにわたしにそっくりで、本物のわたしと区別がつかない! だが、この人形たちの重さはすべて40キログラム、そしてわたしの体重は41キログラムじゃ。キログラムとはなにか、などと訊くのではないぞ!  さて、これからこの人形たちの間にわたしが紛れ込む。その時、人形たちから本物のわたしを、はかりを一度だけ使って見付けだす方法を発見せよ!   ただし問題を解く手がかりとして、各人形の前には人形と同じ重さである40キログラムの、わたしの前にはわたしの体重と同じ重さである41キログラムの砂袋を、それぞれ10袋ずつ置いておく(図1)」  問題をヴァレリーに突き付け終わったエルシードは、彼に後を向かせた。そして、その間に彼女は人形の間に紛れ込み、合計70袋の砂袋の用意を素早く整える。 「よし、もうこっちを向いてよいぞ」  エルシードの許可とともに、ヴァレリーはずらりと並んだ人形のほうに向き直った。 「うーん、これはやっかいだな」  ヴァレリーはほとほと困り果て、腕を組んでうなだれていた。もし正解を発見できなければ、彼を待っているものはエルシードの殺人的な鉄拳のみなのである。  さて…… 【図1】  (●は40kgの砂袋・◎は41kgの砂袋) 1.(える姫人形) ●●●●●●●●●● 2.(える姫人形) ●●●●●●●●●● 3.(える姫本物) ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎ 4.(える姫人形) ●●●●●●●●●● 5.(える姫人形) ●●●●●●●●●● 6.(える姫人形) ●●●●●●●●●● 7.(える姫人形) ●●●●●●●●●● 40kgと41kgの砂袋は、はかりでしか区別がつきません。 はかりを一度だけ使って何番のえる姫さまが本物か見つけよう。